季節外れの結婚と転職について

最近仕事に行き詰まりを感じてる。
恋愛や結婚に悩んだり、仕事に悩んだり、老化やホルモンバランスの乱れに悩んだり、悩むことに忙しいことに悩んだりして30代は暮れていく。

職安の検索システムで、求人を検索してみる。
どの案件も、魅力的とは程遠い内容。
私と同じくらいの年齢の女性で、新卒採用でいわゆる大企業に就職できた人のうち、何人くらいの女性が元の職場に頑張ってしがみついていられただろうか。
私たちが就活してた頃はまだ総合職・一般職という区分で採用があった。(今は一般職はほとんど派遣で賄われていると聞く。)
総合職で結婚して子供を産んで働き続けるのは相当苦しい。
かといって、それなりの四大を出た女性に一般職という選択肢は、当時でも少数派だった。
結果的には、ひとつ階級を落として、一般職で目立たず大人しく椅子に座り続けた女性が現在のところ勝ち組なんじゃないかという気もしなくもないのだが、そんなに甘い話でもないのだろうか。

私が奉仕する会社の先行きは十分怪しいが、仮に幸運にも会社が存続していたとしても、今の仕事にしがみついて10年後、20年後の自分がどんな顔で毎日会社に通っているか、容易に想像出来る。
かといって今更どこか別の会社に転職するというのは、ほぼイコール「お金や安定には代えられない満足」を求めるということ。
残念ながら、今の私にはそれほど強く求める何かがある訳じゃない。
(それがすべての悩みに共通する元凶のような気もする。)

結局この年になると、他人に使われている限りは満足のいくキャリアなんて(男性やエグゼクティブは別としても)あり得ないように思える。
何しろ絶対的に求人がない。
お給料も良くて、お休みもとれて、尚且つ職場環境がいい、なんて仕事は、まぁまず巡り会えない。
30代後半ともなると、レイオフでもない限り自分から仕事を辞めるなんて馬鹿だ。
とはいえ、身体を壊して不幸になるほどその仕事にしがみつかなきゃいけない、なんてこともない。
要は何のために働くのか、ということだ。

昔のブログに、不動産探しと婚活の類似性について書いた記憶があるが、今日は婚活と転職の共通点に気付いた。
30代前半から後半にかけて長いこと、カジュアルからシリアスなものまでひととおりの婚活をやってきた立場として言えるが、世の人のいう
「30代女性は相手を選んではダメ」
というのはほぼ真実である。
これはもちろん滝クリにはあてはまらない。ふかっちゃんにもあてはまらない。
だけどその辺にいる、20代でさえどうにもならなかった程度のアレな女子にはおおよそあてはまる話。
30代前半なら3つだけ条件をつけていい。
30代後半なら1つだけ条件をつけてもいい。
・・・というような内容の本を読んで絶望したことを思い出すが、あれはまんざら出鱈目でもないように思う。
(だからこそ、35歳まで独身だった女性の大半は40歳になっても独身だ*1。3つに絞るのだってムリだと思ったのに、1つだなんて。男女だけじゃん!・・・てなものだろう。)

だが、ひとつだけ、例外がある。
男を養える女になるのだ。
そうすれば、少なくとも相手に求める条件から「経済力」が消える。いや、消さなければいけない。
これで一気に選択の幅は広がる。

誰かに、何かに、依存したいと思っている限り足元を見られる。
これが仕事探しと男探しの共通点。
どちらにしても、実力が無い者には生き残るのは厳しい、世知辛い世の中なのである。

*1:2011年の国勢調査の結果を見ても、30代前半で独身だった女性が30代後半で結婚する率は約3割なのに対し、30代後半で独身だった女性が40代前半で結婚している率はなんと7%に過ぎない。一方の男性も30代後半から40代にかけてのシングル卒業率は僅かに1割。男は何歳になっても(若い女と)結婚できるというのもまた神話に過ぎないことがよくわかる結果である。

春なので青春について思い出してみる

久しぶりに学生時代の日記を取り出してみた。
20年も前にもなろうかという話である。

当時、とにかくおしゃれなものに憧れて憧れて死にそうだった。
一方でオシャレとは真逆の自分のルックス。
お金も無かった。
世知も無かった。
見るもの、聞くもの、全てが遠く高いところにあって、自分のいる地上との距離を埋める方法などわかりようもなかった。
多分、そこを飛び越えるには、女の子ならとびぬけた容姿か、そうでなければ才能か、もしくは面の皮の厚さがあれば良かったのだろう。
けどどれも無かった。
あるのは過剰な自意識と自己憐憫だけだった。

大学に入ったら、オシャレピープルが集うようなサークルに入って、下北沢でフリッパーズのライブを観るんだ、なんて思ってたのに、暗く田舎で浪人生をしている間に彼らは解散してしまった。
入学してすぐのサークル見学に行くと、フレンチカジュアルでキメたカッコいい理工学部の男の子がいた。
少し話をしただけで、真っ赤になって目も合わせられない。
彼らの私を見る蔑みの視線(だと勝手に思い込んでいたもの)に耐えられず、二度と行けなかった。
お呼びでない世界。

仕方ないので、ひとりでしこしこ寂しくオシャレな世界をお勉強した。
当時はコラージュなんかが流行ってて、例えばノートPCやらにはいかしたステッカーをぺたぺた貼って、自分がいかにセンスがいいかということを世間にアピールする。
センスが合わないというのは、相手をジャッジするときの一番の基準だった。
今では大笑いだけど、音楽の趣味が合わない人とは絶対に付き合えないと思ってた。
この年になるとわかるが、あれは完全に病気だった。青春症候群。
私はその病を随分長く患った。

ともかく、私は街中を駆けずり回って、レコ屋や古着屋の店頭にあるフライヤーを掻き集めて、それをノートに切り貼りしていた。
今なら同じことをtumblrpinterestでやっていただろう。
それにしてもこの20年の間に、デザインは素人にも容易になり、オシャレは世界中にあふれ、ありふれてしまった。
素材はどこからでも掻き集められる。
そんな中で自分のセンスを差別化するのは途方もなく難しいように思える。
私なら、とても出来そうにもないと端から諦めてしまっただろうか。

もし、あの時の自分にインターネットがあったらどういう青春を送っていたのだろうかと思う。
顔の見えない世界では、私は活き活きと自分を表現していただろう。
だけど交流する人々とは決してリアルで会ったりは出来なかっただろう。
結局は同じようなことを繰り返しただけなのだろうか。
ともかく、あの苦しみはもう二度と味わいたくないことだけは確かだ。

あたしが大嫌いな私

ある精神科医の記事にどうしてもつっこみたかったのだが、はてブの枠には収まりきらないので、ここに書く。


自分が好きになるために、何が必要か (2012年1月中間報告)


自分を好きになるライフハックがつらつらと書き連ねられているが、十年かけた研究と実践の成果がコレかと思うと寂しい気持ちになる。


自分が嫌いってことは、そもそも治せるような何かなのか?
(ゲイは精神の病だから精神分析によって治せると言われていた時代があったことを思い出す。)


第一「他人と比較して劣っている自分が嫌い」なのだとしたら、あらゆる面で世界の頂点に立たない限り、自己嫌悪は消えない。
「自己侮蔑や劣等感の強い」人なら尚更だ。


でも本当はそうじゃない。
「自分が嫌い」というのと、「自分に自信が無い」ということは似てるようで別のものだ。


だから「自分が嫌い」と騒ぎ立てる人の大半が、平気で自分の分身である子供を作る。
彼らは自分が嫌いなんじゃない、自分が大好きで、大好きな自分が社会的にネグレクトされる存在であることが辛いだけ。
だから大抵は、家庭という社会の中で圧倒的に自分を必要としてくれる誰か(=子供)がいて、日常に忙殺されてって、何だかんだで気付くとそういう思春期的なうじうじの大半は消える。
そんなこんなの一通りが大抵30代には終わってる感じ。


だから、記事に挙げられたハックは「三十代を迎えても・良い職業に就いても・伴侶や家庭を持っても、自分のことが好きになれないまま人生を歩んでいく」人には何の役にも立たないだろう。


「自分が嫌い」なのは「他人から必要とされないから」でも「他人より劣ってるから」でもない。
自分が嫌いな人は、だいたい他人の事も嫌いだ。
嫌いだからこそ、嫌いな他人に劣ることが尚更許せない。
もっと言えば、嫌いなのは人間そのものの存在だ。
自分を含めて、世の中の全員が「生まれてきてすみません」な存在だと思っている。
つまり、どこかで完全無敵な何かの存在を信じている。
(だから不完全であることを許容できない。)


自分が嫌いなら嫌いでいいじゃない。
それが苦しいなら、諦めるしかないじゃない。
自分に期待することを諦める、他人に期待することを諦める。
死ぬまでの時間の暇を潰して、喰って出して寝ることが即ち人生と諦める。
そして、心の底では自分のことが好きで好きでたまらないという真実を、諦めて受け入れる。


近況:
最近女子とかモテとかに興味が無いので、日記を書く動機が見つかりません。
女はこうしてオバサンになっていくのでしょうか。
宇野千代の爪の垢でも煎じて飲んだほうが良いですかね。

東電OLと私

(思わせぶりなタイトルだが、言いたいことは非常にしょうもないと断っておく)


東電OL殺人事件


ひとりの総合職OLが渋谷の繁華街の片隅で殺された、ただそれだけの事件なのだが、強く人々の好奇心を喚起した。


何しろワイドショー的ネタのてんこ盛りである。


昼の顔と夜の顔を持つ女。


一応おさらいしておくと、表の顔は永福育ちのお嬢様(一応)。
慶応卒で東京電力のキャリア女性。


しかしその裏の顔は、拒食症でやせ細ったからだで、夜な夜な渋谷の辻に立ち、だれかれ構わず声をかけ自分を売る。
必ずひとりは客をとらなければ決して家路に着こうとはしなかったとか。


更には奇行。

また、泰子には数々の奇行が見られた。コートの裾をたくし上げて路上で放尿。道に落ちているビール瓶を拾って酒屋で1本5円に換金。さらに、その小銭を集めて、百円玉に、百円玉がたまると千円札に、そして千円札がたまると一万円札に“逆両替”。ホテルで布団を大便や小便で汚して出入り禁止になっても性懲りもなく利用。帰りの終電の中で菓子パンをムシャムシャ・・・。


事件が起こったのは1997年。
当時、私はまだ20代だったが、彼女の持つ闇に強くひきつけられるものを感じ、この事件を興味深く追っていた。


その頃の私には39歳の女性が自分を売るという行為が、契約として成立すること自体が驚きだった。


39歳といえば自分の母を思えば完全なセックスレスであったことは間違いない。
一言で言えば「おばさん」。


そんな「おばさん」に金を出す男がいるのか?
(実際のところ、客はつかまりにくかったようだが。)


ことのほか性に関してはおぼこい(だが頭デッカチな)私には、それはなかなか理解し難い世界だった。


そして、気付くと私は彼女と同じ年頃になっていた。


今、私が渋谷で立ちんぼしたら、誰かが諭吉を差し出してくれるのだろうか?


絶対に無いとは言えないような気がするのだ。
いや、そう思わなければ、婚活だの、恋愛だの、どうして出来ようか?


それを確認したい、自分がまだ男性に(金を払ってでも)求められる性であることを確かめたい。


・・・と彼女が思っていたのかはよくわからない。
彼女が自分を売った理由はもっともっと別のところにあるように感じる。
金銭への執着。
自傷行為


だが彼女の死が人の目をひきつけた理由は、おそらくそんなところにもあるのだと思う。
例えば東大生がAVに出たからといって今や珍しくもないだろう。
だが、女と無性の狭間のお年頃の女が執着するセックスには、もっともっとドロドロとした動物的な業を感じる。


今思えば、婦人公論の極北にこの事件があるような気がしてならない。

結婚できなくていいですか?(世界一なら)

なでしこが世界一に輝いた祝日の朝、なでしこ一色のTVを仕方なく見てたら、フジが澤選手の母親に電話インタビューをしていた。


一通りの「そんなもん、本人に聞けよ」みたいなグダグダなインタビューの後で、ゲストに来てたどっかの女優が
「ところでお嬢さんはお年頃ですが、結婚のご予定は?」
みたいな質問を投げた。


・・・なんたる失礼な質問。


澤選手のお母様は冷静に「特にそういう話は無いです」と答えていた。


真面目に答えるだけでも偉い。
本来ならキレても許されそうなものだ。


私のこの静かな怒りを、しかしどこにもぶつけようがなくイライラしてたら、どうやら似たような内容のインタビューが繰り返されていたようで、それに対するtwitter上の発言をyucoさんがTogetterでまとめてくれていた。


http://togetter.com/li/163851



私が、いや、私達女子が「余計に」悲しいのは、その発言を同性が口にすることだ。


それは一見、日常会話の延長の、下品な他人のプライバシーに対する好奇心でしかないかもしれない。


だが決してそんな単純な話ではないのだ。


女子は、「女」である間、ずっと男子、いや、社会から言われ続ける言葉がある。


勉強出来ても、「でもブスだし」。
スポーツできても、「でもブスだし」。
仕事出来ても、「でもブスだし」。


ブスであることは、全ての価値をゼロにする。
ゼロに何を掛けてもゼロ。


そしてブスであることは、イコール男に性的対象として求められないということであり、結婚出来ないということであり、つまり子孫を残すという、女として最大、いや、唯一の義務を果たせないということである。


上記のインタビュー発言の背景にあるのは、


「次はいよいよ、(手遅れにならないうちに)、本来の仕事である母親業にとりかかる番ですね」
というプレッシャーである。


もっと言えば
「世界一とか言ったところで、あなたは女としての仕事をしていないんだから、大したもんじゃないですよね」
という暗黙の非難、そして、「それをしてる私」の勝利宣言だ。


酒井順子が「負け犬の遠吠え」を書いてから早10年以上、笑っちゃうくらい何一つ状況は変わっていない。


ところで上記のまとめに対し、

まあ、サムライジャパンがワールドカップで優勝したら、選手全員に「で、結婚は?」と聞き、選手の母親に「料理は? 結婚は?」って聞くらしいですから、その時を待ちましょうか。
moriteppei


という皮肉コメントがあったが、その質問自体は意味を持たない。


それに対してはAntiSepticさんのex切込隊長に対する一連の鋭利なディスの中に的確な指摘があったので引用させてもらう。

@kirik 男性スポーツ選手に向けられる恋愛や結婚観に対する質問の中身は「偉業を達成した男はさぞかしイイ女をゲットできるでしょ?」。他方、女性スポーツ選手に向けられるそれは「そんなことしてて恋愛や結婚は出来るの?」に他ならないw


所詮、価値ゼロの女の遠吠えであるが。